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ゲーム理論で読み解くCBAM対応のサプライチェーン協力:排出量データ共有と削減投資の戦略

Tags: ゲーム理論, サプライチェーン, CBAM, 企業間協力, インセンティブ設計

はじめに

欧州連合(EU)が導入を本格化させている国境炭素調整メカニズム(Carbon Border Adjustment Mechanism; CBAM)は、対象製品の輸入者に対し、その製品製造過程で発生した排出量に応じた課徴金を義務付けるものです。これは、EU域外からの輸入品にかかる炭素コストをEU域内製品と同等にすることで、カーボンプランプリスク(排出規制の緩い国への生産移転)を防ぎ、世界の脱炭素化を促進することを目的としています。

CBAMへの対応は、EUへの輸出企業だけでなく、そのサプライチェーンを構成する国内外の企業全体にとって喫緊の課題となっています。特に、製品のライフサイクルにおける排出量データ(いわゆるScope 3排出量を含む)の正確な把握と共有、そして排出量削減に向けた共同投資や取り組みは不可欠です。しかし、これらの協力は、企業間の情報の非対称性やフリーライドの誘因、コスト負担の公平性といった様々な課題に直面します。

本稿では、こうしたCBAM対応におけるサプライチェーン企業間の協力課題に対し、ゲーム理論がどのように有効な分析ツールとなり、実行可能な協力戦略モデルの設計に貢献できるかを論じます。企業が直面するインセンティブの構造を理解し、より効果的な協力メカニズムを構築するためのゲーム理論的アプローチを探求します。

CBAM対応における協力の課題とゲーム理論的視点

CBAMへの適切な対応には、サプライチェーンの上流から下流までが連携し、以下の主要な課題に取り組む必要があります。

  1. 排出量データの正確な共有: EU輸入者は、対象製品の製造における排出量を正確に把握し、報告する義務があります。そのためには、サプライヤーからの信頼性のある排出量データの提供が不可欠です。しかし、サプライヤーにとってはデータ開示が競争上の不利に繋がる可能性や、データ算出・提供のコストがかかるため、情報共有に消極的になるインセンティブが存在し得ます。これは、情報の非対称性やコミットメント問題として捉えることができます。

  2. 排出量削減に向けた共同投資: CBAMコストを削減するためには、サプライチェーン全体での排出量削減が最も効果的です。これには、省エネ設備の導入、再生可能エネルギーへの転換、低炭素素材への変更など、サプライヤー側の設備投資や技術導入が必要となる場合があります。しかし、投資コストは特定の企業(主にサプライヤー)が負担する一方で、CBAMコスト削減のメリットは輸出企業や最終消費者が享受するという構造になりやすく、投資インセンティブのミスマッチやフリーライド問題(協力者がコストを負担している間に、非協力者が利益を享受しようとする誘因)が生じやすい状況です。これは、典型的には「囚人のジレンマ」や「公共財ゲーム」といったゲーム理論の枠組みで分析可能です。

  3. コスト負担と利益分配の公平性: 排出量削減やデータ共有にかかるコスト、およびCBAMコスト削減による経済的メリットを、サプライチェーン間でどのように公平に負担・分配するかは、協力が持続するための重要な論点です。交渉力や市場支配力の違いにより、一部の企業に過大な負担がかかる場合、協力関係は破綻しやすくなります。これは、協力ゲームにおける配分問題として分析できます。

ゲーム理論は、これらの課題における各企業の戦略(協力するか、しないか、どのレベルで協力するか)、それに対する他の企業の戦略、そしてそれぞれの戦略の組み合わせによって得られる結果(ペイオフ、すなわち経済的利益やコスト、環境貢献度など)をモデル化し、各企業がどのような戦略を選択するか、あるいは全体として望ましい協力状態(パレート最適解など)をいかに実現するかを分析するための強力なフレームワークを提供します。

ゲーム理論による分析アプローチ

CBAM対応におけるサプライチェーン協力をゲーム理論的に分析する場合、以下のようなモデルや概念が適用可能です。

1. 情報共有ゲーム

排出量データの共有に関する課題は、情報を持つ側(サプライヤー)と情報が必要な側(EU輸入者)の間の情報の非対称性が中心となります。

2. 共同投資・コスト分担ゲーム

排出量削減のための設備投資や技術導入に関する課題は、複数の企業が協力して公共善(サプライチェーン全体の排出量削減、ひいてはCBAMコスト削減)を生み出す「公共財ゲーム」や、共通の目標達成を目指す「協力ゲーム」として分析できます。

実践的な協力戦略モデルの設計への示唆

ゲーム理論による分析は、CBAM対応におけるサプライチェーン協力を促進するための具体的な戦略やメカニズム設計に以下の示唆を与えます。

  1. インセンティブ設計の最適化:

    • データ共有に対して、データ収集・検証コストに見合う報酬(価格プレミアム、優遇条件など)を設定します。報酬は、データの正確性や信頼性に応じて変動させることで、正直な報告を促すシグナリングメカニズムを強化できます。
    • 削減投資に対して、投資額に応じた明確なメリット(CBAMコスト削減分の分配、共同投資ファンドからの支援、長期的な取引保証など)を保証する契約を締結します。
    • フリーライドを防ぐために、協力しない場合の明確なペナルティ(取引停止、契約条件の悪化など)を組み込むことも、繰り返しゲームにおける協調維持に有効な場合があります。
  2. 情報共有プラットフォームの構築:

    • サプライチェーン全体で利用可能な共通の排出量データ収集・管理プラットフォームを共同で構築・運用します。これにより、データ収集の効率化、フォーマットの標準化、データの信頼性確保(第三者検証の導入など)を進めることができます。プラットフォームへの参加自体にインセンティブ(参加企業間の排出量データ比較によるベンチマーキング効果など)を持たせる設計が考えられます。
  3. 共同投資スキームとリスク共有:

    • サプライヤー単独では困難な大規模な削減投資(例: 再生可能エネルギーへの転換)に対し、サプライチェーン内の複数企業が共同で投資するファンドやスキームを組成します。リスクやコストを分散することで、投資のハードルを下げます。投資によるリターン(CBAMコスト削減額、ブランド価値向上など)を事前に定めたルールに基づいて分配する仕組みを構築します。
  4. 長期的な関係構築と信頼:

    • 繰り返しゲーム理論が示唆するように、サプライチェーン企業間の長期的な関係性は協力を持続させる上で極めて重要です。一度の取引での短期的な利益追求ではなく、将来にわたる協力から得られる累積的な利益を考慮に入れた戦略を推奨します。定期的な情報交換、共同ワークショップ、紛争解決メカニズムの構築などが信頼醸成に役立ちます。

事例から学ぶゲーム理論的アプローチ

CBAM対応に特化した明確なゲーム理論分析の事例はまだ少ないですが、サプライチェーンにおける環境協力に関する過去の事例やゲーム理論的示唆は参考になります。

これらの事例から、企業間の利害が必ずしも一致しない状況下でも、適切なルール設計、透明性の確保、長期的な視点に基づくインセンティブの調整によって、環境協力が実現し、持続可能となる可能性が示唆されます。CBAM対応においても、これらの知見を活かし、排出量データ共有や削減投資に関する具体的な契約条件、共同プラットフォームの規約、コスト・利益分配ルールなどをゲーム理論的に設計することが有効です。

結論

CBAMの導入は、サプライチェーンにおける環境対応の重要性を一層高めています。しかし、排出量データの共有や削減投資といった協力には、情報の非対称性、フリーライドの誘因、コスト負担の課題が伴います。

ゲーム理論は、これらの企業間における戦略的な相互作用を分析し、各企業がどのようなインセンティブの下で行動するかを明らかにします。そして、この分析に基づき、情報共有メカニズムの設計、共同投資スキームの構築、コスト・利益分配ルールの策定といった、より効果的で安定した協力戦略モデルを設計するための実践的な示唆を提供します。

CBAM対応を単なる規制遵守と捉えるのではなく、ゲーム理論を活用してサプライチェーン全体での協力関係を深化させる機会と捉えることで、企業は環境負荷低減と経済合理性の両立を実現し、国際競争力を維持・強化していくことが期待されます。サステナビリティ戦略に関わるビジネスパーソンにとって、ゲーム理論は、複雑なステークホルダー間の調整と協調を成功に導くための重要な思考ツールとなるでしょう。